BASARA

BASARA(ばさら)とは、天明屋尚が2010年に提唱した美術概念。
 神話に登場する土着の荒神・国津神、南北朝期の婆娑羅、戦国末期の傾奇者、幕末の奇想絵師から現代の荒ぶる神としてのゴジラまで、日本のストリートに連綿と根づいてきた華美にして破壊的な美の系譜を「BASARA(ばさら)」と総称。侘び寂びや禅が体現する情緒的な文人気質とは対極にある、祝祭的な武人気質の美の系譜と位置づけた。
 日本の近代私小説における問題点と同様に、マイクロな個人の内面の吐露で終わりがちな日本の現代美術の弱点からは一線を画し、日本の文化軸と歴史軸を直結。「個」の物語に終わらない、日本美術の新たなアイデンティティを模索する試みとしている。
 また貴族趣味(ハイ)でも大衆迎合(ロウ)でもない第三路線、日本に土着し、日本のストリートに根づいた武人気質という立場をとることで、西洋のハイ&ロウの図式に回収されることを回避している。

 天明屋が編著した『BASARA 越境する日本美術論―縄文土器からデコトラまで―』(美術出版社、2010年)』でより詳しく説明されている。同書では、縄文土器が体現する神聖で豪快な生命力を原点としつつ、戦国期に生まれた祝祭的な武人気質、BASARAは、王朝文化が復権した江戸初期には「悪所」に封じ込まれて抑圧されたが、時代が下るにつれ、男伊達な江戸の奇想絵師たちによって再び華開いたといった見解が骨子となっている。
 BASARAを体現するストリート文化としては、古代の縄文土器に端を発し、金碧障壁画、変わり兜、織部茶碗、浮世絵、錦絵、山車、日光東照宮、刺青、そして現在のデコトラ、グラフィティ、劇画などさまざまな視覚文化を網羅。さらにBASARAを代表する絵師として狩野永徳、岩佐又兵衛、葛飾北斎、歌川国芳、河鍋暁斎、狩野芳崖、狩野一信などを列挙。こうした規格外の技量と発想をもった絵師を、「異才」「奇才」などの記号で片付けず、BASARA の系譜として日本美術の中で正統的に位置づけることを目指す。

 岡本太郎や橋本治らが提唱した「弥生的」・「縄文的」と言われる日本美術の2分法を継承しつつ、この「縄文的」なるものを発展的に拡充し、神話の時代から現代までを歴史的につなぐ試みがBASARAと言える。その根本には、繊細で優美な「弥生的」に対し、豪快で野性味ある「縄文的」が下位に置かれがちという、伝統的な日本美術の歪んだ美意識に対する問題提起がある。
 近代における「日本画」というジャンルの誕生は、言わば日本美術における天孫降臨であった。近代以降の「日本画」は突如、天から降って来た西洋美術の価値観に並走することを求められ、西洋画のマチエールやモダニズムに対抗することを余儀なくされていく。
 結果としては以降の日本美術の価値観において、先述した「弥生的」な美の系譜は、西洋モダニズムに呼応しうる優等生として優遇され、支配的となり、「縄文的」な美の系譜が持つ祝祭性や民俗性、土着性は、前近代を思い起こさせる呪縛として屈服させられることとなる(かつての天津神と国津神の関係のように)。しかし、詫び・寂びや、禅・茶道が持つ情緒性だけが日本文化であるはずもなく、満開の桜を愛で、大空を彩る花火に酔いしれ、絢爛な神輿で活気づく霊性、祝祭性もまた日本文化の一側面に他ならない。
 現在では明治期に誕生した「日本画」という枠組みの限界を自覚し、日本美術の大きな流れのなかで再定義する試みもしばしば議論されるようになってきたし、2019年に「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」(東京都美術館、東京)が開かれ、伊藤若冲や曽我蕭白など奇想の画家に焦点が当たるなど、従来の硬直化した見方に対する是正も進んできている。

 端的に言ってBASARAとは、近代日本が捨象した「祝祭」である。BASARAとは、詫び・寂びや用の美といった従来の文人的な価値観では絡め取れない奇想の系譜、あり得たかもしれないオルタナティブな日本画の可能性、日本のモダニズムに対するストリートの視線からの下克上なのである。
[アップデート版 2019.4.11]